お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

命がけで産み育ててくれた母へ、感謝を込めて 誕生日に母を語る

5月の第2日曜日は、母への感謝を表す「母の日」ですが、
お母さん大学には「誕生日に母を語る」という企画があります。
自分の誕生日に、産み育ててくれたお母さんへ
想いを馳せたお母さんたちの手記をご覧ください。

太陽みたいなお母さんになりたくて

46年前、切迫流産で入院した母。「しっかりお腹にしがみついとくんよ」と、お腹の中の私に何度も言い聞かせた結果、予定日超えでスピード出産。以来、私は病気とは無縁の元気なおてんば娘となった。

楽天家な母は、私が「やりたい!」と言い出したことは一切反対せずに応援してくれた。勉強しろと言う代わりに「やればできる子じゃけえね」。高校卒業後は進学で神奈川へ、大学卒業後はワーホリでニュージーランドへ、帰国後は就職で東京へ。いつだって母は「あなたの人生だから」と快く送り出してくれた。

仕事で辛いことがあっても家では嫌な顔を見せず、家事もほどよく手を抜き、大好きな歌を習い、友人たちと旅を楽しみ、自分を犠牲にすることなく生きていた母。私もそんな風に過ごしたいと、常々思ってきた。

そんな母は8年前、がんで65歳という若さでこの世を去った。今でも母がいたらどう言うかな、母にもっと相談したかった…と思わない日はない。
ずっと笑顔でいるのは難しいけれど、母のような、太陽みたいなお母さんになりたくて毎日葛藤している。

「人生に無駄なことなんて一つもない」「子どもに心を向けてさえいれば、脱線しても必ず戻ってくる」…母の教えを胸に、これからも愉快に明るく楽しく! (智原美沙)

 

母の手づくりアップリケ

ミシンの音が響き、寝付けない日もあった。母が夜なべして縫ってくれた、アップリケがかわいくてお気に入りだった洋服たち。でもある日、学校で背後の男子たちが何やらひそひそ。すれ違いざまに「空飛ぶなすび~」とからかわれることになる。ベストの背中のアップリケは謎のなすびと雲のコラボ。以来、好んでは着なくなった。

北九州市で自由奔放に育った私は、20歳のときに上京を決めた。引っ越し先でポツン。ひとりぼっちは初めてだった。ダンボールもそのままに、ゴロンと天井を仰いだ。その瞬間、孤独に押しつぶされそうになった。無性に寂しさが押し寄せ涙が止まらなくなった。気づけば受話器を握りしめ、泣きながら母に電話をかけていた。やさしく慰めてくれると思って。

だが母は「なん泣きよるん。しっかりせんね!自分で決めて行ったんやろ。もう泣きながら電話して来たらいけん」と言って電話を切った。一瞬で涙も止まり、ハッとした。そう、自分で決めてここまで来た。何も知らない、頼れる親戚もいないこの場所に。でも自分の幸せのためにやって来たんだ。

目的を見失いそうなとき、幾度となく、母は私に喝を入れ、目を覚まさせてくれた。

いくつになっても母と娘の関係は永遠で、今なお母に敵うものは一つもない。きっとこの先もずっと。 (田端真紀)

 

母になったことが一番の親孝行

思春期の頃から母に反抗し通しだった私。過保護だった母に抗おうとするが、結局は負けてしまうのだった。

たった一度、母が折れたのが、夫との結婚だった。つきあい始めたときから猛反対。何度衝突したかわからない。だけど夫のことは私も譲らず。母も最後は私を青森県から群馬県に出してくれた。

今ならわかる。過保護だったのは、危なっかしいわが子を必死に守ろうとする愛情だったことが。

長女が生まれた翌日、母が青森から来てくれた。いよいよ母が青森に戻る前の晩、私は母の前で大泣きをした。反抗ばかりだったことを詫びると、私を抱き締めて言った。

「あんたが母親になったことが一番の親孝行だよ。お母さんは結婚に反対した。でもあんたはそれを振り切ってたった一人で群馬に行った。そして子どもたちを産んで育てた。そのことは子どもたちに伝えてあげなさい」と。

そのときわかった。母は、いつか私が結婚して母になる道をずっと望んでいたことが。
母に、私が生まれたときに描いた絵手紙を見せてもらったことがある。「あなたが生まれた日、窓辺で微笑んでいました」と記されていた。私も子どもたちが生まれたときの気持ちは忘れない、忘れたくない。 (木村歩)

永遠に子どもの幸せを願う母

誕生日の今日、母からメールが来た。「あなたたちの幸せが、私たちの幸せです」シンプルだが尊いメッセージだ。

私と妹が結婚して家を出てから、事あるごとにその言葉を口にする母。「一番の親孝行は、子どもが幸せに暮らしていることなんだよ」と。

そういうもんかあ…と、子どもがいない頃は、正直あまりピンとこなかった。しかし自分が母になった今は、その言葉の意味がよくわかる。

これから先、子どもたちがいつまでもいつまでも、幸せでありますように。それだけを願って、日々子どもたちを育てているのだから。

子どもが悲しむと、私も悲しくなる。私の母も、私が泣くと一緒に泣いていた。進路のこととか、就職のこととか、結婚とか、私の人生の選択において、まったく口を出すことのなかった母だが、心の中では「私の幸せ」だけをずっと祈っていたんだなと、今になってようやくわかった。

こうして家族と幸せに暮らせているのは、そんな家庭を築けるような人間に、私を育ててくれた両親のおかげ。「母は家庭の太陽である」と教えてくれた母のおかげと、感謝の気持ちがわいてくる。今日は母が「お母さん」になった日。産んでくれてありがとう。 (天野智子)

母のようになりつつある私

専業主婦だった母は、ママさん卓球三昧。近所のママ友といつもワイワイ。家族ぐるみで春は花見、夏はお泊り会。ビールを飲みながら焼きそばをつくってくれたのをよく覚えている。
ケータイも車もない、今よりずっと情報も少ない中での育児。つながりがすべてだったのかも。

どこへ行くにも、ママチャリに子どもを乗せて爆走。マシンガントークといわれるほどよくしゃべるので、母がいるとにぎやかになり、場が明るくなる。お節介焼きでパワフル。でもとっても繊細で気遣いの人。今でも昔の友人に会うと「おばちゃん元気?」と聞かれるほど、ご近所では有名人だった。

そんな母が大嫌いなときもあった。私より、よその子を優先していると感じていたが、わが子を信頼してくれていたんだと、今ならわかる。

結婚し地元を離れての生活。子育てでわからないことや何か悩みがあるときは母に電話をする。息継ぎを忘れるくらいのマシンガントークが、心地よい。

そして、実は私も、母のようにお節介焼きでおしゃべりなおかんになりつつある。似てないと言いたいけれど、性格は母譲り。これからもパワフルおかんでいてね。 (大塚未希)

 

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