先日、育仕両立支援事業「イクシモ」のセミナーに、赤ちゃん連れで参加してくれたお母さんがいた。せっかくだから、一時子どもと離れて講義に集中してもらえたらと、後方で抱っこさせてもらった。
生まれてたったの4か月。なのにもう空気を読めるのか、つぶらな瞳で私をじーっと見つめたり、にやっと微笑んだり。そのうち私の腕に身を任せ、すやすやと眠りにつくという出血大サービス。
途中、私に気遣ってお母さんが、「大丈夫ですか?」と様子を見に来た。
と、その時だ。眠っていたはずの子は、すかさず母の声をキャッチ。少女漫画の女の子のようにキラーンと輝きを放ったその瞳は、まっすぐ母へと向けられたことを、私は見逃さなかった。子どもってスゴイ!
それなのに、だ。私は、「大丈夫」とお母さんに子を渡さず、抱き続けてしまった。小さな子は、どれほど母に抱きしめられることを願っていただろうか。当然その罰は、2日後に右手の痛みとしてあらわれた。
近頃、「子どもまんなか社会」という言葉をあちこちで聞くが、私たちは本当に子どもの声を聞けているのだろうか…。
10年ほど前の話になるが、私の講演会終了後に、一人のお母さんから投げかけられた「1歳の子どもを、保育園に預けるか預けないかで迷っています」という質問のやりとりを、今でも思い出す。
演題は「子育てに夢を!」。迷いの中にいるお母さんに「自分が笑顔になれる選択をしたらいいよ」と返した私こそ、子どもではなく、お母さんファーストだった。
「迷っているくらいなら、今しかない子どもとの時間を過ごしたほうがいいよ」と本当は言いたかったのに、言わなかった。
北山修作詞、加藤和彦作曲のフォークソング『あの素晴らしい愛をもう一度』をご存じか。北山修さんはミュージシャンでいて九州大学名誉教授、精神科医でもあり、「共視論」の論者としても知られている。
浮世絵に繰り返し描かれている母子の構図を「共視」という。
たとえば母とその胸に抱かれた幼児とが、かざした傘に向けて視線をやる歌麿の「風流七小町 雨乞」のように。子どもが母の視線を追いながら母と対象を共有し、そこから言語を習得したり思考パターンを学んだりするそのプロセスが、浮世絵には雄弁に表現されていると、心理学的に論じていて興味深い。
共視する母子を描いた絵は、西洋にはほとんどないそうだ。私には、美しい構図として母子を描いた浮世絵が、未来につながっているとしか思えない。
「あの時 同じ花を見て 美しいと言った二人の♪
あの時 ずっと夕焼けを 追いかけていった二人の♪」
北山さん、『あの素晴らしい愛をもう一度』は母子の歌ではないですよね? (藤本裕子)
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