5月12日は、母の日だ。
毎年この季節になると花屋には、赤やピンク、黄色や白…とカラフルなカーネーションが咲き乱れる。が私はなぜか、赤いカーネーションに心ときめく。子どもの頃母を想い、お小遣いの百円玉を握りしめて、一輪の赤いカーネーションを買って帰った日が蘇る。
母にカーネーションを贈れなくなって、36年が経つ。母の記憶も薄れゆく中、今月の特集もあって、引き出しの奥にしまっていた、母からの手紙を読み返してみた。
消印は、昭和49年9月2日。母の筆跡が、懐かしい。
就職のため、18歳で郷里(福岡県久留米市)を離れた私へ、母が宛ててくれた手紙だった。
一通は、私が家を出た直後に書かれた手紙。
ーー貴方が行ってまだ2日しかならないのに、今頃どうしているかと案じられてなりません。今夜の電話で、おなかが痛いと言っていたのでとても心配です。電話したらいけないとのことでしたので、この手紙が着き次第、電話ください。今ね、東京の地図を買ってきました。貴方のいる六本木の辺りを見ています。ーー
わずか数行の手紙だが、そこには、寂しくて寂しくてたまらない、母の気持ちが溢れていた。
別の手紙にはこうあった。
ーーこんなに貴方に会いたいのに、貴方は私に会いたくないのかなぁと不思議です。貴方に将来、子どもができれば、私の気持ちがわかるでしょう。ーー
当時の私は仕事に夢中で、母の気持ちなど知る由もなかった。けれども今読み返してみれば、母の寂しさが痛いほどわかる。
そういえば、私にも、母と同じ日が二度あった。
娘たちが家を出た日。長女も次女も、ろくに部屋を片付けもせず、さっさと家を出て行った。涙を流しながら、娘の部屋を片付けた日を思い出す。寂しくて、辛く悲しかった、あの日。
娘(長女)もいつか、子どもたちが家を出る日を経験する。その日が来れば、きっと、あの時の私の気持ちもわかるだろう。
セピア色にすっかり色褪せた母の手紙。だが50年前の手紙とは思えないほどインクの色は鮮やかで、その文字は、まるで今も母が生きて、私のことを心配しているかのよう。
母がしたためるわが子への手紙は、50年後も。いや、50年という時を経てようやく、百万母力の威力を発揮するのかもしれない。
(藤本裕子)
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