お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

失われた「母時間」を取り戻す場 ワーホプレイスとらんたん オソイホドハヤイ〜お母さん大学とモモと、時々、母時間〜

ワーホプレイスとらんたん(お母さん大学本部)は、横浜みなとみらいにある。

灯台にも鉛筆にも見える廃墟のようなビルに入ったのは2年前。心地いい空間にしようと仲間と壁を塗り、無垢材を張り、テントを張った。

ワーホとは、workとhomeの造語。家でもなく会社でもない第三の居場所。失われた「母時間」を取り戻す場だ。お母さんたちは、絵本を読んだり手紙を書いたり…。

残念ながらここには、黙って話を聞いてくれるモモはいない。

一緒にアクションしようと言う、ウザイスタッフばかりだ…。

藤本学長の謎のつぶやきが
意味するものとは?
横浜みなとみらいにある「ワーホプレイスとらんたん」(お母さん大学)を訪れた日のことだった。ふと隣にいらした藤本学長が「モモもいいなと思ってるのよね、児童文学の」と私に一言

「???」モモはもちろん知っているけれど何の話? 藤本さんのお話はいつもながら唐突だ。「失われた時間の話、…子育ての、時間が…この場所で…そのハハジカンを…」その夜、ふと「モモ…」の一言を思い出す。あの話は結局何だったのだろうか。

『モモ』は小学生の頃から大好きで何度も読んだし、自宅の本棚にもハードカバー版が鎮座している。しかも実は私、大学で西洋文学を専攻していた。

つまり、『モモ』の著者である、ミヒャエル・エンデ作品を原文で読む宿題もあったし、遠い記憶ながら『モモ』について扱った講義も聞いたはずだ。が、このドイツの名作とお母さん大学に何の関係が?

モモと母時間について
考察してみた
ぼんやりと、物語のあらすじや文学的解釈を思い出す。

ーー灰色の男たちが人々に時間の節約・効率化の術を教え、節約された時間を人々から奪っていく。人々は楽しむことや余暇を忘れひたすらセカセカと働き続ける。主人公の少女モモは灰色の男たちから、人々の奪われた時間を取り戻すーー

「母時間」というキーワードがそれに結びつくというの
なら、ここは一つ、学生時代に戻って(お母さん大学生だし)、自分なりに考察してみよう。

* * *

子育ては常に時間との戦いだ。授乳や夜泣きで眠る時間もままならない乳児期に始まり、手も目も離せない時期に必死でこなす家事。園や学校に入れば子どものスケジュールにしばられ、仕事をしていれば、勤務と育児の時間をいかに振り分けるかに四苦八苦。一日を28時間にしてあげると言われたら、飛びつくお母さんは山ほどいるだろう。灰色の男たちなら、こう誘惑してくるかもしれない。

・片道5分のスーパーに子連れだと30分⁉ もったいない! 体感ゼロkgの特製おんぶ紐をプレゼントしましょう。お菓子売り場では眠くなるオプション付きです。これで買い物時間を週に7時間は節約できますね。

・同じ絵本を1時間も読み続けているですって! なんということ。お母さんの声をそっくりそのまま再現できる、最新読み聞かせロボを差し上げますよ。寝かしつけにも使えます。貯蓄に回せる時間が増えましたね!

「時間の貯蓄」はファンタジーだが、忙しい日々につい子どもとの時間を「こなす」ことだけに必死になってしまった覚えは、私を含め多くのお母さんにあるはずだ。

だけど子育ての時間って、本来「こなし」「縛られる」だけのものではない。そこには気づかないだけで、奪われてはいけない大切なものが隠れている。

モモの友人である掃除夫は、灰色の男たちの登場により、「タイルを一掃きしては休み、自分の掃除した道とこれから掃除する道を眺める」という仕事のやり方を忘れてしまう。そして「何をするでもなく、ただモモと一緒にいる」という大好きだったはずの時間を手放してしまう。

灰色の男たちから
お母さんと母時間を守る場所

「母時間」とはきっと、右手に持った重いエコバッグの中で、生肉と夏の日差しが格闘していることを知りながら、左手につなぐわが子が、一心にアリの巣を眺める感性に寄り添う時間。暗唱できるほど読んだ絵本を今日も読み、いつか子どもが巣立ったあとに、その絵本のフレーズをふと思い出す時間。

母時間がお母さん大学の守りたいものならば、あの古ぼけたビルの一室(失礼!)は、灰色の男たちからお母さんと母時間を守る場所なのだ! 灰色の男たちとは何のメタファーか…。

大学の独文学研究室なら、それは、高度経済成長に伴う効率主義等々の答えになるのだろうが、ここはお母さん大学。

お母さんから母時間を奪う泥棒は、「孤育て」による視野の狭窄かもしれないし、子育て世代が働きにくい世の中かもしれないし、あるいは、いろんな価値観につい縛られてしまうお母さん自身かもしれない。

そういう時間泥棒たちをやっつけて、お母さんがお母さんに戻れる時間をつくる。お母さんに子どもとの時間がいかにかけがえのないものかを伝える。
お母さん大学は、そんな役割を担っていくのかもしれない。

子どもと歩く母の歩みが
オソイホドハヤイという教え

物語のクライマックスで、モモを灰色の男たちの元へ案内するカメのカシオペイアが、「オソイホドハヤイ」と教えてくれる。

作品世界では、ゆっくり歩くほど速く進み、急ぎ足の男たちから逃げられるというファンタジックな設定なのだが、現実の母時間はそうはいかない。

一日はどうしたって24時間だし、「とらんたん」にいる間だけ、外の時間を止められるという魔法もない。じゃあどうやって母時間を守るのか。

泥棒から時間を取り戻してくれたモモは、実はただの少女で、家もお金も家族もない。ただ一つ他の子と違うのは、「人の話を聞く」ことができるという点だ。

だとしたらとらんたんは、お母さんの声を、たくさんのお母さん仲間が聞いてあげられる場所なのかもしれない。

焦った時ほどピタリと足を止めて向き合ってみる。全く動いてないように見える日々でも、実はものすごく進んでいる。

子どもとともに歩く母のカメの歩みが、オソイホドハヤイということを、お母さん大学がきっと教えてくれる。
(アブダビ在住・杉本蘭)