お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

靖國で会おうを感じる

昨日は母と靖國神社へ。正式参拝をしました。

現在、みたままつりです

 

赤塚國学塾というメールマガジンを読んでいて、そこで正式参拝への参列者を募集していたのがきっかけです。

私は、母と靖國へ行こうと決めてから初めて、母のいとこに当たる人が靖國神社に祀られていることを聞きました。

そうなんです、いつも知らないことが多すぎる。

それは私が“教えられていなかったから”ではない。“知ろうとしなかった”から。

 

靖國神社って何かと話題を湧かせることが多いし、政界でも言ってはいけないワードみたいになっていますよね。だから怖い、近寄りがたい…。

私は、数々の大戦で日本の人を守った方々が静かに眠る地に、自分の手を合わせるのは当然と考えたので、

知識がなくても参拝する意味がありました。

 

 

でも正式参拝なんて初めてだからと、どんな意味でこの神社が創建されたか、誰が祀られているかを読んだら

この国を守ったすべての人に感謝する場なんだと、正式参拝へ行く前に色々と心新たになりました。

靖國神社の由緒

 

今までも何度か靖國神社へ参拝をしたことはあります。

終戦記念日近くには、腰の曲がったおじいさんもおばあさんも、御霊の目の前で手を合わせる番を待って行列を作るのを目の当たりにしました。

でも、私につながりのある場所であることをこれまでは分かっていなかった。

 

それが今回、正式参拝と遊就館への訪問を経て

改めて生かされていることを感じました。

私と血もつながっていない、出身地もかけ離れたその人らが

自分の家族や大切な人と、未来の私のために生きてくださった。

そして母とのつながりがあるその人が、今この地に立っている私を守ってくださった。

そして、私が生きているから、私の子どもが生きている。

 

創建の意や、ご祭神をよく知らなくてもいい。

それらを知らずに生きていても、

私の命はたしかに、今日までつながっている。それだけは誰の上にも等しいはずです。

 

知識があるとか、親族に由縁があるとか、それらを理由にしないと参拝できない場所ではない。

誰もが今日この地に生きていることを実感する場所。それが、私が感じた靖國神社です。