次女が6歳を迎えたあの日、大地震が起こった。
インフルエンザにかかった4人の子どもと家にいた私。交互に休みを取って看護していた。なので夫は出勤日だった。そして長女は学校にいた。
7人は三箇所に散らばっていたこの日、経験したことのない揺れがわが家を襲った。棚からDVDがなだれ落ちそうになり手で抑えた。ぐわんぐわんと建物は円を描くように揺れ、それは長時間続いたが、次第におさまった。
けれど、インフルエンザの子どもを4人連れ、家を出ることはできなかった。
テレビを付けると
町が波に飲み込まれ
ミニカーのように車が濁流の中に消えていった。
東北が大変なことになっていた。
ちょうど下校時間と重なり、娘は学校から普通に帰宅した。集団下校もなかったので、泣きながら帰宅した子も中には居たそうだ。
現実のものとは信じがたい映像から目を離せないでいると、玄関のチャイムがなった。
ママ友が両手に一杯の買い物袋をぶら下げて立っていた。
インフルエザの子どもを抱え家に缶詰め状態であるわが家のことを心配して駆けつけてくれたのだ。
パンやら飲み物、カップ麺など大量の差し入れが沢山詰まった買い物袋。
これから起こる特定の食品が品薄になることを予測して備蓄用の食品が沢山詰まった買い物袋。
思いやりや優しさが沢山あふれた買い物袋。
ずっしりと重かった。
ありがとうをいくつ重ねても足りないくらいだった。
東京の青海の職場にいた夫は、帰宅困難となり、家族が揃わない誕生日はお預けとなった。
夫は翌日の昼過ぎに帰宅。その晩一日遅れの誕生日となった。
あれから、10年が経つ。わが家の子どもの成長で時の流れを感じることが出来る。
そして毎年一日も遅れることなくこの日を迎えられる喜びと共に
悲しみに溢れた一日が始まる。
テレビを見ていたら、語り部の女性がこう訴えていた。
「大切な人に“ありがとう”と“大好き”をちゃんと伝えてほしい」。と。
卒業式の後にお世話になった塾の先生に言うつもりだったこの言葉を伝えられなかった経験を話していた。
それを一緒に見ていた次女が「ありがとう」と言ってきた。
とっさにこっちも「生まれてきてくれてありがとう」と返した。
それだけのやり取りだったが
娘の誕生日なのに、こっちのほうがプレゼントをもらったかのように、ほくほく顔になってしまった。
思いを伝えるって、恥ずかしい。
でも後悔しないように
後回しにしないで
今この瞬間に伝えよう。
昨日も家族全員で大切な家族の誕生日をお祝いできたことを幸せに思ったから、みんなにありがとうって言えばよかった。
貴重な大切なお話を本当にありがとうございます。
インフルエンザ4人の子どもたちの中での地震。
そうか、そういうこともあるんだと改めて思いました。
ママ友さんの心遣いが本当にありがたいですね。
田端さんの、これまでの関係性があるからこそのことだと思います。
私も伝えそびれている方がいるので、今から伝えようと思います。
あれから10年経つんですね。
テレビで他にも当時高校生が町の復興のために起業した青年の話もありました。それでもまだまだ経済が回らないと言っていました。
復興は建物や道街並みでなく、見た目ではわからない沢山のものがまだ置き去りのようです。
インフルエンザ4人…あの日、その場所が東北だったら、、そんなお母さんもいたのかな…なんて思ってしまいました。
優しい次女さんですね。
後悔しないように、伝えたい言葉は伝えておかないと!ですね。今夜眠る前に絵本と一緒に、そんな話もしようかな。
本当にいろんな人が命を守る行動をしたはずです。
行動も含めて後悔しないように色々と準備しておかなきゃですね。
次女さん、お誕生日おめでとうございます!
あの日家にいたのですね。
毎年巡ってくるこの日にまた、書いて、教えてください。
一人で、頭の中で考えるよりも、みんなで少しでも思いを寄せられたら、いいなと思いました。
ありがとうございます(^o^)
あの日、総務からなかなか帰宅オッケーの連絡がなかったと聞きました。
当時大黒埠頭で働いていたうちの近所に住むお母さん職員は、車通勤でした。
地震直後にすぐに年休簿を提出してサッと車で帰宅したので、渋滞にも巻き込まれずスムーズに帰宅できたと聞きました。
とっさの判断だったと思いますが、今は『地震後むやみに移動を開始しない』と言われています。http://www.bousai.go.jp/jishin/syuto/kitaku/renraku/2/1.pdf