人に頼むのって
なかなか大変だ
何が大変だって
そこにいきつくまでのことが
携帯とるのが?
スマホでメッセージを打つのが?
いえいえ
そんなことではなくて
これはあくまでも自分の話なんだけど
相手にどう思われるだろう
うざがられるか
迷惑がられるか
そんなことを考えてしまって
相手へのメッセージを打つ手が止まる。
つい「それなら自分でなんとかしようしなくちゃ」になってしまう。
確かにそうしたら、誰かの手を煩わせることもないだろうし(その時はね)
言う、ことでかかる自分へのストレス(ほんの一時的なね)は出てこないかもしれない
けど
きつくなるんだよ
どこかで「なんで私ばっかり」「どうしてあの人は楽にしているの」とか
誰かへの批判や苦しさで顔を出す。
きっと多いんだろうな、そんなママ、いやママだけではない、その傍にいるパパも。
どうかするとその思いを引き継いでいるのは、その更に上のママ、さらにさらに上のママつまりおばあちゃん、おじいちゃん
引き継いできたものかもしれない。
私は今その思いの渦中にいる。
よーく思い返すと
自分って生まれたころからそうなの?とよく問うのだけど
絶対そうじゃない。
子どもを見ていて思うのは
生まれたころの赤ちゃんこそ特に、何が起こってもふわっとそこにただいる、
その命そのものがそこにいる感じ。
嫌なら泣いて、おなかすいたら泣いて、むずがゆくて泣いて、素直に素直に生きていた。
きっと何が起こっても、言葉にこそしなくても「だいじょうぶ」な赤ちゃんの頃。
今自分がこうして悩んだり、見もしない先のことに不安を覚えているなら、きっと今まで40年近く生きてきた中で
培ってしまった癖や引き継いできた親たちのジレンマなんだろうな、って思う。
もちろん親たちだけ、ではないだろうけど。
うちの子供たちにまあいろいろと心を引っ掻き回されることがある。
その時殻に閉じこもった視点でいると、苦しくてたまらない。
いったい私はどうすればいいの?って。
けどね、ほんの一息つくときにちょっとだけでも紙に書いてみるといい、素直なその時の気持ちを
スマホに録音して聞いてみるのもいいね。
紙をペンを持ちたくないなら、スマホ片手にメモに打ち込むのもいいかもしれない。
いずれにせよ、自分の中に閉じこもった視点から
すこしだけ外から自分を眺めてみるといい。
わたしってこんな思いなんだね。
ほんの少しでも眺められると、気づかないくらいかもしれないけど、思いが軽くなるから。
あとね、近所に子育てサロン、とか話す相手、がいるなら言葉にして話してみてもいい。
言葉にすると、自分の思いと吐く言葉とでの違和感を感じることもあるし、
もしかしたら聞いている相手が、外からの目線での言葉をくれることもあるかもしれない。
それで気づくことがあるかもしれない。
どんな方法にせよ
少しでも内を外に出していくといい。
最初の話にもどるけど
私は日常で、周囲に息子の園のお迎えを頼んだり、買い物を頼んだり、周囲に何かをお願いすることをやってみている。自分がやろうと思うことはやるのだけど、やっぱり、体がきついとき、末っ子の
昼寝がかぶって動きづらいとき、周囲を頼っている。
そしてお願いをするときに、まだまだ顔を出すのが「何か思われるかもしれない」だ。
相手への面倒をかけるかもしれない、つまり、、
「相手に嫌われたくない、嫌われると見放される、寂しい」
この根っこを私はいまだにずーっと持っている。
事を起こす度この根っこが顔を出す。そして私はそこを思い出さないようにと「頑張る」のだ。
きっと、この根っこをもった人たち多いじゃないのかな。
そんな根っこからの「頑張る」ってホントに本気の頑張る、になっているのかな
そうね、きっと疲れているんじゃないのかな
って、これは私へのメッセージでもある。
お疲れじゃないですかママさんたちパパさんたち、いえ、それ以外のみなさんも。
周囲にいら立ちをおぼえませんか?
皮肉を言いたくなりませんか?
空回りしてませんか?
お疲れじゃないですか?
今一度、言葉にして「今の、自分の、正直な思い」を出してみませんか
ちょっと周囲たよってみませんか。
もう一度言うけど
これは今の私へのメッセージでもある。
そしてそれを出すことで、今の自分を振り返りもできるし
おこがましいが誰か一人でも、大丈夫よ、のメッセージを送れるかも?って思うから。
まだまだ根っこに寂しいを引きづる私だけど、ママなり立ての頃に比べたらね
心は少しずつ軽くはなってるんだよね。
さて
これ、
記事にのせてみましょうか。
うんうん。何度も頷きながら読みましたー。
持ちつ持たれつ、頼ったり頼られたり、そんな関係を周りと構築しとくことが、賢い頑張りなんかもな。