「誕生日おめでとう。プレゼントを用意したから、取りに来て」
7月14日は43回目の誕生日。母から電話をもらい、夕方、車で実家に寄った。
お母さん、また一つ歳を重ねることができました。ありがとう。そんな風に思いながら、実家の2階にしまってある古いアルバムを開きに行くと、お相撲さん感満載な私の赤ちゃん時代の写真に、母、大爆笑!ひとしきり盛り上がっていた。
アルバムがある押入れには、布地の古くて小さなアルバムもあった。
開いてみると、そこには戦前から戦後、祖父母が子育て真っ只中の家族写真。そして祖父の国民服の写真が目に飛び込んできた。
眠ったままだったアルバムを開き、一度も会ったことのない祖父のことをもっと知りたくなった。こんな機会、なかなかない。そう思って、両親の結婚前に亡くなった祖父の話を改めて聞いた。
母方の祖父は、明治44年、東京都早稲田生まれ。酒屋の7人兄弟の次男で、女学校出身の祖母と結婚。戦前、3人の子宝に恵まれた矢先、
召集命令を受けて、海軍兵として硫黄島へ送られ、3度目の出兵中に肩に砲弾を受け、負傷。その直後に硫黄島が玉砕した。
「戦地では死ぬもんだと思っていたから、弾がとんできても怖くなかった。負傷して、生きて帰れるとなった時は何とかして帰りたかったから、すごく怖かった」とよく話していたという。
そして家族のもとに戻り、その後に生まれたのが私の母。4人兄妹の末娘として、可愛がって育ててもらったそうだ。
面会の時
口下手だった祖父。戦中、祖父が海軍兵として寄港した木更津に家族が面会に行った時、祖母いわく、子どもや親について様子を聞いてくることはあっても、妻である祖母への言葉は何もなかったそうだ。ただ、ひどい赤ぎれの手を見て、ポケットからメンソレータム(クリーム)を取り出し、黙って握った手に、そっと塗ってくれた。そうして、面会時間は過ぎていったが、祖母はそれが嬉しかったのだろう。母にこの話をしてくれたという。
働き者の祖父
そんな祖父が九死に一生を経て迎えた戦後。再び東京の練馬に酒屋を構え、生活がゆとりがあったわけではないが、それはそれは働き者で、祖父はいつも弟たちや困っている仲間を助けていたそうだ。
「最後は61歳で心筋梗塞で亡くなったんだけどね。もう体が弱くなってから、2人で店番している時に『この歳になってこんな小さな店をやっているとは思わなかった。俺は自分だけが良くなろうと思ったら、とっくによくなってた。でもな、みんながそれぞれ良くなるのがいいんだ』って、言ってたなぁ」と、母。
この言葉がのちに、知的障がいのある息子(私の次兄)を育てるなかで、「障がいがあってもなくても、この街でともに豊かに暮らそう」と、40年間社会に種まきをしていった母の支えになったという。
「自分の子だけが良くなっても、それだけで社会がよくなるわけじゃないからさ」。
おじいちゃんが生きていてくれたから、お母さんが生まれて。そしてお母さんがいるから、私も生まれて。脈々と繋がっている。命も思いも。
母は、もう一度心をくぐらせて父親を思い出していた。実直なおじいちゃんに直接会いたかったなぁ。でも、自分の誕生日に聞けてよかった。その時代の人が何を思って、どう生きたのか、それを知ることの意味を改めて思う。写真越しだけど、今度はひ孫も一緒に、会いに行きます。
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