お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

150gの壁

150gの氷を入れ、更に150gのコーヒーを淹れる。これが長男にとっては、難しいことの一つだった。

先日、療育施設主催のお仕事体験で長男はコーヒー屋さんになった。一杯300円のアイスコーヒーを売る。一般のお客さんから実際にお金を頂くとあって、金銭管理も衛生管理もよく考えられたもの。療育の先生たちが本人たちの特性を考え分業制にしてくれた上で、前日に仕事時間の倍以上の時間をかけて予行練習もしてくれた。親はただ、見守るだけ。

彼の仕事は、注文を受けて150gの氷と150gのコーヒーを測って淹れ、渡す係に引き継ぐこと。難なくできると思っていた。目標数値があり、指示も使う道具も場所も明確に示してある。数字にも強い彼だから大丈夫、と。ところがどっこい、そうはならなかった。予行練習中に150gが測れない、と訴えたのだ。彼の頭の中がパニックになっているのは、遠くからでもみてとれた。

どうも彼の中では、150gと指定されていたからには149gも151gも許されないと解釈していたようだった。同様に、149.99g≒150g も許されないようだった。氷は一つ一つ形も大きさも重さも違うし、液体もミリ単位で測ることは難しい。「大体」「これくらい」「なんとなく」が苦手な彼らしいといえばらしいのだが、盲点だった。

結局、150gを正確に測ることの難しさを体感し、先生との話し合いの結果、140g〜160gの誤差はOKという結論に至ったようだった。それをただ言い聞かせるのではなく、難しいことを本人に実感させてから話し合う、とことん本人が納得いくまで付き合ってくれる先生とのやり取りを、遠くから感動しながらみていた。

そしてみている私はつくづく思った。私たちの日常生活には、「大体」「これくらい」「なんとなく」で瞬時に判断を迫られることが溢れているんだなあ、と。

又聞きで聞いた話だが、例えば黒板は緑でチョークは白。ノートは白で鉛筆は黒。学校で黒板からノートに書き写せ、と言われても色が違うから書き写せないと感じる子がいると。長男はそうそう!と激しく同意していた。

別の例だと、絵の猫と実際の猫を同じ「猫」という動物だと認識できるのは、かなり高度な認知だという研究をみたことがある。

恐らく長男にとっては、黒板に書かれた文字とノートに書く文字が一致しないように、絵の猫と実際の猫も全く違って、同じ「猫」だと納得するまでに人より時間がかかるのだと思う。そしてそれが今回は、149.99g≒150g だったのだろう。

 

コーヒー屋さんは大繁盛で、想定の半分以下の時間で全て売り切った。売上金は皆で山分けして、なんと時給2000円!!になった。ひっきりなしに来るお客さんを周りと声掛け合いながら次々と捌いた結果、最初こだわっていた150gも最後は、「大体」150gができるようになったらしい。

それを聞いてもう体から力が抜けるくらい、ホッとした。なんだかようやく、先の見えないトンネルから抜けられそうな気がした。

パニックになり、癇癪が起きて閉じこもる度に、この子は社会に出ていけるのかな、自立できるのかな、親がいなくなったら?と夜も眠れなかった。

でも、きっと彼は、社会に出てやっていける。今回みたいに周りの人に支えられて、人の中で生きていける。親の力を借りずに周りの人と乗り越えたこれがきっと、自立に向けた第一歩。そう思えたことが、とても嬉しかった。

子にも親にも、実りの多かったお仕事体験。彼はまた、やりたいそうだ。