お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

祖母の死

ばあちゃんが亡くなった。

2月6日18時37分。96歳だった。

眠ったままいつのまにか息を引き取った。

自宅で骨折し入院。その後施設に入所して5年以上になる。コロナに思いっきり巻き込まれて認知は低下した。この数年はわたしのことは分からなかった。

わたしはばあちゃんにたくさんたくさん育ててもらった。2つ下に双子の妹がいるわたし。母は双子を育てるのに精いっぱいで、同居のばあちゃんにわたしを預けた。おんぶしてもらったり、子守唄歌ってもらったりした記憶、いまも弾むようなばあちゃんの歌声、よく覚えている。

おばあちゃんのことを「おかあちゃま」と呼び、じゃ母のことは誰なの?って聞かれた時、「んー?ごはん作ってくれる人?」って答えていた幼少時代。

思春期になると、よく喧嘩した。

口が悪いばあちゃんは、ぽちゃぽちゃと太っている私のことをよく誰かと比べてディスったりした(笑)

だけど、もちろんよく褒めてくれていた。勉強、スポーツ、何か頑張ったら必ず褒めてくれた。

よく外出する祖母だった。

80歳を超えて、お友だちと久留米に串揚げを食べに行くこともあったり。

タクシーで1人でウナギを食べて、花見に行きたいから桜が観れるところへ行ってと運転手さんにお願いしたり。

じいちゃんが亡くなってから20年が経つ。数年前先に逝った長男のおじちゃんにもうすぐ会えるかな。じいちゃんのこと見つけられたかな。きっとじいちゃんは「遅かったね。待ってたよ。」と、あの変わらない優しい口調で、ばあちゃんを迎えてくれることだと思う。

もう既に息をしていないばあちゃんに会った時、わたしも娘も嗚咽し、むせび泣いた。わたしたち3人もみゆうさんが3歳ぐらいの頃、よく遊んだ。

うどん屋さんでばあちゃんは天ぷらと日本酒を嗜み私たちはうどん食べたり、温泉に行ったり、マニキュア塗ったり。

ひいばあちゃんのことが大好きな娘だった。

わたしとひいばあちゃんがよく似ているからだと思う。

自由奔放な人。

家族をこよなく愛して、

お茶目で上品で、

美味しいものとお酒が大好きで、

おしゃべりで。

控えめに見えるけど、そんなに控えめじゃなく、ソロプチミストの会長も務めた。

ひとりっ子で、

努力家で、手先が器用で、

毒舌が得意だったばあちゃん。

昨日のおやつまで食べて、天国へ。

また生まれ変わってどこかで会えるかな。

あなたがいたからわたしがいる。それは紛れもない事実で。

安藤葉子さん。ばあちゃんに心から感謝し、敬意をはらう。

この世の人生、おつかれさまでした。

ありがとうございます。

ばあちゃんがばあちゃんで、良かった。

入院中よく読んでくれたお母さん新聞だったから、備忘録として。