今日も言われた
『行かないっ!』
あー何度目か
何日目か
いつ終わるのか…
このまま『行かないっ』が続くとどうなるのかな…この先社会でやっていけるのか、学力は…読み書きそろばん(計算)は出来て欲しい、クラスでもなんとかやり切る方法学んでほしい、、そうしないと、そうしないと、、
そうしないと
どうなんだろう
その先に見ているのはなんなのだろう?とふと自分に問いかける。
かつて私がそうだった
行きたくない、行かない、を繰り返し
でも両親に叱られるからと渋々登校したり
行かない言い訳を他に求め
行ったふりして避けて
怖くなったら逃げたり
勉強も、出来ないところを出来るフリしたり
そう、どれもこれも
『両親があんなに怒鳴っていたせいだ』
そうだ、あいつらのせいで私は逃げていたんだ、、だから私も親になった以上、子どもたちにそんな思いをさせたくない、、、させたくない、、、そうしたくない、、、誰が?
私が、そうしたくない
『わたしの、せいにしたくない』
『わたしのせいにしないで』
あれ
子どもらの為にと思っている行為の数々は
『わたしのせいにしないで欲しいからやっていること』になってはいないだろうか
私自身を責められる、という恐れからじゃないか…と気づいた
散々やってきてやっと気づいた気持ちだ
今までは繋がらなかった
自分の行為が自分の恐れからだというのを
気づいただけだが、すっと胸が軽くなった
で、どうすればいいかは
さっぱし今はわからない
けれど『恐れからの選択は少しずつでも止めていい』のかもしれない
恐れが過去なら私は先に進む未来を選択したいし今この瞬間に本当にやりたいことややるべきことを優先したい。
ま、まずは洗濯物を干そうかな(笑)
母になるといつどこでも瞬間的に決断を迫られる、例えそれが恐れからだとしても母は毎日決断する。渦中にいるとまるでそれはジャングルを進むような。どうすればいいか分からなくても、立ち止まっても我が子を目の前に自分の恐れも感じながらも生きるために進む。
ドラッガーの言うところの生命論、、は理解出来ていないが、母は生きるため、生かすため、人の本能的に『恐れからの回避』をするためにそんな選択をするのかもしれない。そして疲れ果てて考えるんじゃなかろうか『この道は本当の本当に自分の望みなのだろうか』と何度もそんな苦しみと理解と腑に落ちる瞬間を感じながら母は進んでいくんじゃなかろうか、と
昨晩は母ドラ夜の部に参加させていただいた
動画も見ない、本も読まない、そんな中で参加したが、白仁田社長はじめ、グループの方々シェアで自身の感じた事を述べさせもらい、こうしてまた朝を迎えた時にさらに自身への理解が深まった。深まってどうしようではないけど、そうか、と腑に落ちるとなんだか胸のつかえが少し取れていた。
先程も言ったが
母は何度も別れ道で分からぬままも決断しながら進んでいる。まるで冒険者だ。
そういえば12月14日に行われた『子育ての未来をデザインする…』では言いそびれたが『母は〇〇』に私は『冒険者』と答えを浮かべていた。
毎日家に居るばかりで
何もしていない、と思うなよ
母は毎日、悩みもがき、ながらも決断し、
なんとか生きよう生かそうと頑張ってます
母は冒険者、なんです
かおりさん
私の正直な感想です。
「だって、社会はできない子を見ると一目散にお母さんのせいにするんだもん!」
行き渋りする子
勉強ができない子
ハキハキ喋れない子
お礼が言えない子
食事のマナーがなっていない子
携帯ばかりを見ている子
全て全て、ネガティブなことに対しては、親の顔が見てみたいね?という風潮。だけどそれを躾けることって、お母さんだけの仕事なのかな?って思います。
お母さんの役割はコーチング?ティーチング?することだけじゃない。もっともっと大切なこと。〝愛や安心感〟をこどもにgiveするだと思う。なんていうんだろ…逃げたい時にパッと逃げちゃっても大丈夫なんだ。って伝えること?うーん。文字にしにくい。
心配も迷いも愛があるから。
なんだかかおりさんの記事を読んで、そう思ったのでした。乱文失礼しました。また会いたいです^_^
さとみ
母ドラ、ありがとうございました。
恐れからの選択を少しずつ止める…いいですね!
まさしく「小さくやめる」ですね。
恐れが過去、というのも納得です。
だったらなおさら過去に時間をかけている場合ではない、とドラッガーさんは言いそうですね。
かおりさんのお話、私も聞いてみたかったなと思いました(^^)