お母さん大学に入学して、何かを強制されたり、
何かを指示されたりすることはほとんどない。
「お母さんの心を感じて、ペンを持つこと」
ただそれだけを大事にし、私たちお母さん大学生に伝え続けてくださる藤本さん。
入学したての頃は、「お母さんの心」・・・果たして私にあるのだろうか?
記事を書いたはいいが、「お母さんの心」で書けているのだろうか?
ペンを持つと、自分の手を使って書くと、何が変わるのだろうか?
そんなことをいつも思いながら、悩みながら、立ち止まりながら、
わからないなりに、ペンを持ち、私なりに地域版を書いてきた。
地域版を創刊して、来月で一年になる。
私の地域版を読んで、つい最近お母さん大学に入学してくれた仲間ができた。
その仲間が、来月、自分で地域版を創刊するという嬉しい出来事♪
新聞を通して、ゆっくりだけど、お金にはならないけれど、目には見えないけれど、
確実に、着実に、地域のお母さん同士の繋がりができつつあると感じている。
本当に嬉しい。
今日、その地域版3月号の印刷に行ってきた。
新しく創刊する仲間と一緒に。
いつも、ギリギリにならないと記事を書かない私は、
印刷日前夜、夜な夜な書き上げた。
どうしても書きたいことがあった。
長男を激しく叱責し、反省と申し訳なさでいっぱいになったある日の、
息子に対する懺悔の記事。
どうしても、残しておきたかった。
不特定多数の人が見る新聞に、いいことばかりを書きたくなる。
でも、それじゃあ伝わらないし、何かが違うと感じる。
「こんないいお母さんに私はなれない」と、新聞を読むことを諦めるお母さんもいるかもしれない。
私の失敗談・子育ての悩みや葛藤を伝えたい。(もちろん、喜びも)
それを読んだ育児中のお母さんが、
「あー、私だけじゃないんだな」とホッと安心できたり、共感してもらうことができたらとの想いで。
でも、昨晩書き上げて、ひとつ気付いた。
「ペンを持つこと」
「ペンを持って書くこと」は、
自分の胸の中にしまっていた色んな感情や考えを、改めて外に出していく作業。
今回、息子とのすったもんだを書いたことで、何か私の中が整理された感覚と、
自分の課題や今後の課題がはっきりと明確にできた感覚。
しっかり「ごめんね」と、息子に向き合える感覚。
だから、「ペンを持って、自分を観るんだ!こどもを観るんだ!」
そう感じた。
そして、先ほど。
印刷したての地域版を届けた、お母さん大学生の仲間からメールが届いた。
「みわちゃんの記事、ボロボロ泣きながら読んだよ。
めっちゃわかるよ。私もそうだから、手に取るように場面がわかる。
こういう日常を記事にするって、本当に大事だね。」
と。
私の記事で、人の心が動き、涙まで流してくれるなんて、嬉しすぎる。
伝わった!という実感が、また私の筆を突き動かす原動力にもなる。
私が新聞を書いていたら(いや、書いている様子を敢えて見せるようにしている)、
息子たちも、「オレも書きたい!」と言って、
編集長の一端を担ってくれるようになってきたのも、また嬉し♡
無事、筑前町~ゆりかご版~3月号を発行できた日に。
子育て真っ最中のお母さんが、ペンを持つことっていろんな良いことが起こるんだと
伝えてもらえて、私のモチベーションも上がります。
高知でも、お母さん大学を必要としてる人たちと、もっともっとつながっていきたいなと思います。
近藤さんのこの記事を、高知でもお母さん大学を伝える時に使わせてくださいね。
高木さん。いつも記事、楽しく拝見しています。
コメントありがとうございます!!
高知で頑張っていらっしゃる仲間がいるということ、この九州でも励みになっていますよ☆
私の記事で良ければ、ぜひぜひ何なりとご利用ください♪
嬉しいです♡
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お母さん大学を言葉で伝えるって、本当に難しいな~と日々感じています。
だって、学ぶのは、そのお母さん自身だから。
学びは人それぞれで、価値観も気付きも人それぞれで、入学したからと言って、
すぐに何かが変わることもないかもしれない。
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でも、じんわり、日々の生活の中で、
ムクムクと、「お母さん」が自分の中で動き出し、
育っていく感覚なのかな~と今は、思っています。
こちらこそ、ありがとうございます。
入学したからといってすぐに変わることがないけど、
じんわりムクムク育っていく(この表現なんかいいですね)感覚を感じられるのは心地いいですよね。
気づきと学びが私のキーワードとして何度もめぐる言葉です。
それはその先に成長したいという欲求があるかどうかがあるのだから、すぐにわかってもらえるものではない・・・
時間をかけて手間をかけてこその発見に至るという構図だから。
私がお母さん大学に入って10年で、もう一度子育ての振り返りをさせてもらえる中で喜びの再発見をしているのです。
自分の経験を子育て中のお母さんに披露しながら、自分が経験しなかったことを今また教えてもらえるのです。
それはしばらくこの場所を共有しないことには感じられないのだから、人の出入り自由も保証されているからこそ
心地よさもあると思います。