【2018.8.8】
私の住む福岡県朝倉郡筑前町には、
町が建設した「大刀洗平和記念館」という建物がある。
この辺りは、「東洋一」と言われた【大刀洗飛行場】があり、
73年前の戦争の時に、特攻隊がこの地から多く飛び立っていった場所でもあるのだ。
この筑前町に引っ越して以来、ずっとずっとずっと来たかった場所。
近いのに、なかなか来れなかった場所。
でも、不思議とこの日。
何かに導かれるようにして、この記念館を息子2人と訪れた。
この記念館の中で、特別展示として行われている戦時資料展。
この記念館では、10日までの展示ということを知り、どうしても息子たちにこの資料展を見せたかったのだ。
真っ青な空に凛と建つ記念館。長男は、連れて来られることに抵抗し、「いやだ、いやだ!」と言っていたが、
この建物を見た瞬間、なぜか車からすぐに降り、自分からスタスタと、資料館に入って行ったのだ。 そして、この記念館の最大の特徴である、零戦戦闘機の展示。
ホールにドン!!と、さも飛び立ちそうな出で立ちで、私たちを迎えてくれる。
この零戦ミニ戦闘機の保管・展示は、世界で唯一の展示という。
中の操縦席まで見える。
この説明を読むまで、この場所に来るまで、知らないことばかりだった。
そして、実際の戦闘機や、展示されてある73年前に実際に使われていた品々を間近に見て、
戦争の恐ろしさをまざまざと感じた。
家族と離れて、お国のために命を捧げた若い特攻兵の方々の想いを感じ、
辛くて、胸が苦しくなった。
自分が今立っている場所に爆弾が落ち、多くのこどもや罪のない人々の命が奪われた事実。
この場所で亡くなった方々の写真が、何百人と壁に貼られていた。
そのひとりひとりに、お母さんがいて、お父さんがいて、こどもがいて、兄弟姉妹がいて、
家族がいて、親戚がいて、先生がいて、愛する人たちがいたのだ。
涙が出て、言葉にならなかった。
その方々の写真に、ただ、手を合わせることしかできなかった。
嫌だ嫌だと言っていた長男小4も、食い入るように展示を見ていた。
実際に使われた鉄砲や手榴弾。
銃弾を受けて、貫通した鉄ヘルメット。
血のついた布。
兵隊さんやこどもたちが着ていた軍服。
使われていた食器。水筒。
ひとつひとつ、どれを取っても、その物に魂が宿っているようだった。
そして、特攻隊員たちが残した遺書の数々。
直筆の字に、ここに「人」の「命」があったんだと、感じずにはいられなかった。
どんなに無念だったろう。
どんなに家族と離れることが辛かっただろう。
どんな想いで、飛び立っていったのか。
どんな想いで、敵に向かっていったのだろうか。
この手紙を見て、胸が張り裂けそうな気持ちになった。
そして、お母さんを想う手紙。
書いた若い兵隊さんの涙で、手紙の字が滲んでいる。
この手紙を思い出しただけでも、涙が出そうなほど、
お母さんへの想いが綴られていて、切なく、悔しくなった。
そして、展示の最後。
特攻展示。
実際に、海から引き揚げられたプロペラ機の展示もあった。
息子たちは、この展示を見て、何を感じただろうか。
ここには載せられないような悲惨な写真も展示もたくさんあった。
思わず、目を覆いたくなるような掲示もあった。
でも、これが現実だったのだ。
この戦争で、命を落とし、命をかけて国を守ってくれた方々がいるおかげで、
今の私たちが平和に暮らせているのだと、
そのありがたさを強く感じた。
実は、記念館に行く前日。
ある記事を私はフェイスブックで見つけ、シェアしていた。
【焼き場に立つ少年】
という、朝日新聞の記事だ。
そのことが書かれている本が、なんとこの記念館にあった。
デジャブかのような、この本との出会いに、驚いた。
そして、更に驚いたことが。
私が記念館を訪れた2時間後。
ある知り合いの方から、一通のメールが届いた。
「今日、大刀洗平和記念館に行ってきました。
ここでの特別展示が10日までです。
どうしても、近藤さんに見てもらいたいと思い、
『ぜひ、記念館に行ってみて下さい』とのお誘いのメールをしました。」
とのことだった。
何という偶然なのでしょう。
いや。
きっと・・・この日に私が訪れたのは、必然だったのだと思った。
8月6日。
8月9日。
決して忘れられない、忘れてはいけない日。
この幸せを、平和を、私たちが何としても守らなければならないと
強く感じた日。
戦争で失われた多くの御霊に祈ろう。
これからずっとずっと続く平和を祈ろう。
そして、日々の家族の健康と無事を、祈ろう。
愛する人の幸せが、何よりの平和への一歩だから。
ひとりのお母さんが、平和を思う。
ひとりのお母さんが、平和を願う。
ひとりのお母さんが、平和を祈る。
この日、お母さんと一緒に訪れた、この場所のこと
息子さんは、きっと、忘れないよ。
イヤだ、イヤだと言った長男くん。
わかるんだよ。
子どもには、ここが、悲しい場所だってこと。
私も、経験があります。
孫のたっくんが、4歳のとき、
水俣資料館に連れていったことがありました。
すると、たっくんは、その場所が落ち着かない様子。
帰ろう、帰ろうというのです。
どうしたの?と聞くと、
ここにいたら、涙がなくなっちゃうよと言ったのです。
私は、びっくりしました。
字も読めない。けど、何かを感じるのでしょう。
素晴らしい記事を、ありがとう。
そのときのことを書いた記事がありました。
もしかしたら、読んでくれたことあるかな?
↓
http://www.30ans.com/86/backnumber/200908.html
藤本さん。
早速コメントをありがとうございました。
失礼ながら、上記の記事は読んだことがありませんでした。
添付して頂き、ありがとうございます。
たっくん、すごいですね。
「ここに居たら、涙が枯れちゃう」なんて・・・
こどもは、「感じる」力が大人よりも強いですもんね。
・
藤本さんのコメントを読み、長男のこと、明日朝起きたら、褒めてやりたいと思います。
怖いけれど、逃げずにしっかり直視したこと。
考えていたこと。
全身で感じていたこと。
母さんは、そんなあなたを誇りに思うと。
・
私は、いつもは夜9時台に寝てしまうのですが、
この記事と、この記事の後に書いたもうひとつの記事は、
どうしても8月9日以内に書きたかったので、夜更かししました。
母としてできること・やらなければならないこと、
まだまだたくさんありますね。
近藤さん
夏休みに、子どもが星を見るために、夜更かししてもいいように、
お母さんも、平和を考えるときは、夜更かしだね。
母としてできること、
こうして、ペンを持つこと。
そこからです。
だから、ありがとう!
世界はまた怪しげなリーダー達が選ばれています。
世界が不満で覆われ出したらそのエネルギーはどこへ向かうのか・・・
そんなことが気になる時代になっているからこそ、ここでもう一度戦争の悲惨さを思い出す必要があります。
私は歴史教育が伏せられて捻じ曲げられてしまった戦後をようやくこの頃気がつかされるのです。
70年もの間、戦争国アメリカについて悪くは言えない縛りがかけられていたことに気がつきました。
歴史にもしもはないだけに、史実を記録していくことが大事だということですら日本はできていません。
記録は誰のもの?そこから問い直さない限り先に進めない今日問題のアレコレ・・・
その記録は色んな立場から書かれたものだからこそ、立場が変われば感じ方も変わるという視点を学ぶことですね。
真珠湾攻撃はアメリカが仕掛けたものという説が、今日色んな人の本が目につくようになりました。
アメリカは自分が正義だという視点を崩さない限り驕りに縛られ続けていく私達の問題があります。
真珠湾に沈められた戦艦や攻撃の映像をハワイで見た時までは、日本は無茶な戦争をした・・・としか
思っていなかったのですが、今仕掛けられたという本を読むと別の思いがこみ上げるのです。
私たちの先祖たちは必死に戦ったことを。