今年、生活団を卒業した次女が、生活団に通っていた時の回顧録です。
以前書いてたけど、日々の忙しさやコロナ禍で中断していたので、その続き。
前回の記事は、ここにあります。
生活団という選択肢
生活団という選択肢② ー 通団鞄
生活団という選択肢③ ー お食事
生活団という選択肢④ - 生き物のお世話
さて、今回は生活団に入って驚いた、父母会のこと。
次女が生活団に入り、年間計画表を見て思ったこと。
父母会、多っ。
毎月あるみたいで、年間計画見た時は、「多い。。。」と思った。
私の母は「週1回しか通わないとこで、月1回父母会あるん?」と言ってました。
土曜の朝から3時間。
長女の保育園の時なんか、途中で父母会なくなりましたからね。働いてるのにできないとかあってか、なくなって、3,4歳で卒園記念の品もらいましたからね。
長女が5歳から通った公立幼稚園では懇談の多さにびっくりだけど、次女の所でここまであると思わなかったです。
幼稚園の懇談が形式的な感じだったから、そういうのを想像して、義務感を感じたけど、初めて出た時分かりました。
これは3時間かかるわ!
今まで、プリントでもらって指示があって、単に「こうして下さい」と書いてあったのをただ守らないといけないと思うのと、ここにはこういう意図があって、子どもに対してこういう思いがあってというのを生で聞くのとでは違うわ。
これは書き切れないし、生の意味がある。
そして、何より、ここは子どもが「自分が自分である事を許される」所なんだなーと感じた。
自分が自分である事を許される、って当たり前の事じゃないん?って思われるかもしれないけど、世の中そうじゃないとこ沢山あるじゃないですか。
「こうすべき」と掲げられたら、こういう自分は出したらあかんのかなとか、ここの部分は出しても大丈夫とか、そういう部分部分しか出せないのって窮屈だったりするじゃないですか。
ありのままの自分でいいって、結構丁寧にゆっくり向き合わないとできなかったりする。
父母会では黙祷する時間があるんですが、いらちで焦りがちだから、黙祷するとか静かな時間持つって私の生活になかったのです。
子どもだからかもしれないけど、ここでは子どもの気持ちが尊重されてる感じがしました。
そして、それが親にも余波が行く感じ。
その時はまだ謎な所もあるから、分からないけど、最初の父母会で感じたのは、いいとこ見つけたんちゃうーんという感じ。
ついてけるかどうか分からないけど、ちょっと楽しくなって来たのも父母会がきっかけでした。
追い立てられ続けたこどもが大人になってそれに慣れていく社会がこれまでの競争社会でした。
そして歪みが大きくなりながらコロナに振り回されながら、大事な原点を考えることになりましたよね。
こどもを追い立てない、その子のもっている種を枯らさないための育ちを見つめ直す時代になれば
コロナ万歳と私は言いたいです。
次女は、この記事に書いた生活団は、もう今年卒業したんですが、初めての夏休みの前に言われたことが今でも心に残っています。
「子どもはボーッとする時間が大事です」
夏休みにどこか連れてってあげれないとか、そういうことは気にしなくていいというお話からでした。
色んなものが入って来ると、こなしてるようで落とし込むまでいけないと。
生活団はゆっくり過ごす日々でしたが、コロナ禍は世界中が生活団基準になったような体験でした。