お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

gift ー子育てを通した「贈与論」を試みる

受け取ったものを、たぶんどこかで「do」していて、それはまた未来のどこかで、繋がれていく、継がれていく。

そんな風に、最近の子育て生活のなかで、あるいは仕事において、思ったり、思いだしたりします。

2022年、コロナは終息しないまま、終わろうとしています。
今年の始め、何を思ったっけ?

「コロナを言い訳にしたくない」と動いた部分と「まったく変わっていないな。あかんやん!」と反省する部分と。

ただ、たくさん本は読んでいました。

趣味のひとつは読書だと、自信をもって言える。

知人を通して、西田卓司さんという人の存在を知った。その人のブログが面白くて読み始めたら、かなり私が読んできた本、あるいは気になっていた本とかぶっていたものだから、嬉しくなって、すぐに連絡を取らせてもらいました。

「私の読書灯」と勝手に決めて、“これから読みたい本”の参考にしてきた。実際読んだものでごくごく最近、すごく衝撃的だったのが

『ルポ 誰が国語力を殺すのか』。

え?ホントに、いま、学校や若い人たちの間でそんなことが起きてるの?とズドーンと衝撃を受けてしまった。

不登校の子どもが増えているのは十分知っていたし、その理由も複雑なのは理解できる。(現在の“学校システム”で、果たして本当の意味での学びがあるのかどうか、私自身疑問に感じる部分も多いから)不登校は“ただしい反応”だと話す人たちの言葉にも頷けるものがある。

だけど、不登校の本人が「学校には行けない。理由?わからない」と言うケースが多いとは、ここで初めて知った。

背景には何が?

〇不登校の要因

…彼らは『生きる』というところで精いっぱいなんです。その日、その時をなんとか生きているだけで、広い視点で物事を考える余裕がない。p163

 

読み進めていくと、その「説明できない」理由も、十分納得し得るんですよ。

 

スマホの普及、スマホを保持する年齢の低年齢化。

将来の夢は「ユーチューバー」。

ゲームや動画。LINE慣れ。「既読」の不安。「即レス」。

 

そこにないものは、

自ら考えることであり、待つことであり、容易くないことであり、肌触りの実感であり、自然、だ。最もなのは、“想像力”かもしれない。

 

また別の次元で考えたとき、“そこにないもの”があるのではないかと。

誰かに手渡すもの、贈るもの、継がれるもの、です。

 

ここで別の本を。

『世界は贈与でできている』(近内悠太)。

“届いていた手紙の封を開けよう”

僕らはいつも他者からの善意を見落としてしまう。というよりも、愛はそれが愛であるならば、見つからないように、気づかれないように手渡される。

愛はサンタクローズのプレゼントのように、その正体を隠したまま、僕らのもとへやってくる。

だとしたら、僕らにできることは「届いていた手紙を読み返すこと」ではないでしょうか。あるいは、届いていた手紙を読むことができる人間へと変化することと言ってもいい。p116-117

大人になって「あの頃のあの言葉・行為」が有難いものだったとか、あの時は反発したし、受け止められなかったけど…ってこと、誰にでもありますよね。

私の場合、自分の子ども時代を思い出すことが増えた、とは冒頭に述べました。

現在、娘が小学2年生で、私自身の記憶も、小学生時代は色々思いだすことができるんですよね。

「あのとき、お母さんとあそこに行ったな、連れて行ってもらったな」
「あの頃のあれ、楽しかったんだよね。懐かしー!ああいうこと、今も出来たらいいのに」

自然ある場所で自然のなかで遊んでいた自分。
カニとかトンボとかよく捕まえて遊んでいた幼い頃の自分。

(そういう“場所”自体もgiftだったのだと今は思います)

自ずと、娘はそんな姿になり、(手づかみで虫を捕まえる娘に対し、当然ながら私は「ぎゃ~!」とか言わないし、「おー、すごいね」の会話となるわけで…。

自分が親にしてもらってきたことを、自分の子どもにもいつの間にかしている。
逆のパターンももちろんある。

「あのとき、あれしてほしかったんだよね…」
だから子どもには…。

とか。

…これまで見てきたように、贈与はモノや財の移動そのものではなく、それに伴うコミュニケーションによって規定されていました。だからこそ、贈与は手紙であり、郵便的であり、誤配となるのでした。だとしたら、贈与論はコミュニケーション論でなければなりません。コミュニケーションはもちろん言葉を介して行われます。言葉を言葉足らしめているものとは何か。それは「意味」です。

言葉は意味を持つ。あまりにも当たり前に見えるこの事実を考え直してみたいと思います。その中で、言葉は僕らの心の中、頭の中にあるものではなく、僕らの「生活」全体を規定していることが明らかになります。P134

(ここあたりの記述は、認知症のひととのコミュニケーションにも非常に深く関連しているのでまた面白いです!!)

世界と出会い直すための逸脱的思考

…逸脱的思考とは、世界と出会い直すための想像力のことでした。p185

私たちは、時に(私自身はけっこう頻繁に)「想像力に欠けている状態」になります。

想像力=“他者の靴を履く”ことでもあるのでしょう。

(ブレイデイみかこさんの著書『他者の靴を履く』もいろんな人に読んでほしい一冊です)

身を置いてきた環境によって、自分の“当たり前”は大きく変わる。

(だから人は“みんな違う”)

それはまた、価値観の違い。一方で、その“当たり前”が揺さぶられ、変わることもある。変えることができるし、変わることはマイナスでは決してない。

常に世界は動いているのだから。

動き続ける世界のなかで、自分の思考も状態も、その時々で変化していく。

ただできるだけ、well-beな状態でありたいから、いろんな書物に触れる。いろんな人、環境と出会いたい。しゃべってみたい。

学び続けていきたいなと思います。

いま読んでいる2冊。これもヒジョーに面白いです♡

3件のコメント

読書ママさん、
素敵です。読書を通じて子育てをして
それを発信する行為は素晴らしいです
SNSの普及で密な関係がなきなり、他者への想像力がかけてきています
スマホ、ゲームから離れてリアルを 
体験しよう!

智子さん 早々のコメントありがとうございます!

リアルな体験・経験は、ずっと”残り”ますものね。
ゲームやスマホなどの最新ツールとの適度な距離感、
これをどう構築していくか…。あるいは、リアルな体験の機会の提供。
そこが、学校とか地域社会とか…「子どもは宝」なら行政に問われている気がします。

(家族にこれを強いるのは現代は難しいですもんね。だって、あまりに”働かないと”生活が厳しいもの…。物価高、先行き不透明な時代のなかで…。)

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ABOUT US
白川奈保
埼玉出身、2013年~香川へ。介護職の夫と、小学生の娘と、インコのとっちゃんと暮らす。 日常は、介護、医療、福祉に関するフリーの物書きとオーガニックなお店の店員。 好きなもの:沖縄、南米、高校野球、音楽いろいろ。 FB、物書きとしてのネームは「向田奈保」です。