お母さん大学は、“孤育て”をなくし、お母さんの笑顔をつなげています

多くの母たちの苦しみを思う ーイタイイタイ病資料館を訪ねてー

患者が「痛い、痛い」と泣き叫ぶことから病名が付いたとされるイタイイタイ病は、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそくと並び、日本の四大公害病の一つ。昔、教科書で学んだことはあったが、一昨年「新たなイタイイタイ病患者が認定された」とのニュースを聞いて「まだ終わっていない」ことを知った。しかもこの病気、35歳以上の経産婦に多く発症したということを知り驚愕した。なぜ「お母さん」なのだろう。そんな疑問から、この旅が始まった。                       (MJ・青柳真美)

のどかな村に起こった
不思議な出来事

大正時代、神通川の水を水田や生活用水として生活する人々の間で、原因不明の病気が現れた。

特に子どもを持つ35歳を過ぎた女性に多く見られ、病気が進むと腰や肩が激しく痛み、骨がもろくなって簡単に折れる。痛さに耐えられず、患者が「痛い、痛い」と言うことからイタイイタイ病と呼ばれるようになった。

原因不明のため、患者は風土病や、悪い行いの報いなどと差別を受け、「あそこに嫁に行くと、病気がうつる」といった噂も広がった。母親が寝たきりになると、父親は治療費を稼ぎながら一家を支え、子どもたちが母の看病を引き受けたが、生活に困窮する家庭も多かった。

社会問題となり
原因が突き止められた

清く澄んでいた神通川の水は白く濁り、死んだ魚が大量に浮き、水田の稲が枯れるなど農業被害も多く出た。

その後、原因は上流にある神岡鉱山(岐阜県飛騨市)の亜鉛生産の廃物である鉱毒だと判明。排出されたカドミウムが神通川の水や流域を汚染し、この川水や汚染された農地に実った米などを通じて体内に入ることで引き起こされたとのことだった。

戦争中や戦後の高度経済成長期の犠牲になったともいえる患者や家族、住民たちにとっては、辛く苦しい日々が長い間続いた。

1955年にようやくイタイイタイ病が報道されるようになり、裁判では住民側が勝訴。患者として認定された人は201名だが、中には差別を恐れ、症状があるのに訴えなかった人も多いという。

今年8月にイタイイタイ病の認定患者が亡くなり、存命患者がゼロとなった。しかし、将来イタイイタイ病になる可能性を否定できない「要観察者」と判定される人もいるなど、いまだに苦しむ人は存在し、患者救済や健康調査は現在も行われている。

汚染された環境については、被害の克服に向けた長年にわたる努力によって土壌は復元され、神通川はどこよりも美しい川になった。美しい大地と水、そして富山の人々の笑顔が蘇って今がある。

なぜ、患者の多くが
お母さんだったのか?

一番知りたかったのは、なぜ妊娠を経験したお母さんにイタイイタイ病が多いのか…。

イタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒によって、まず腎臓に障害が出る。次に骨軟化症を引き起こすというもの。妊娠や授乳、内分泌の変調、老化、カルシウムなどの不足が原因となって病気を進行させるためか、子どもを多く産んでいる人ほど重い症状だったという。

水俣病には、毒が母親の胎内に留まらず、母体を通じて胎児にいく胎児性水俣病があったが、イタイイタイ病は、胎児や子どもには発症しなかった。

国内外へ情報発信する
イタイイタイ病資料館

次代を担う人々に「イタイイタイ病の恐ろしさ」や「克服の歴史」を伝え、学んでもらうことを目的に2012年に建てられた、イタイイタイ病資料館。

イタイイタイ病の歴史が展示や映像で示され、リアルに再現された人形劇では、当時の人々の様子を思い知ることができる。子どもたちが関心を持つようにと、クイズ形式のワークシートもあった。

「痛くて痛くてかなわんで。はってでも行けりゃ、川へでも入って死ぬんやけれど」。

展示パネルの患者の写真と台詞が胸を打つ。咳やくしゃみをするだけで骨が折れるほどの痛みと苦しみ、寝たきりで家族のお荷物になっていることを悲観し、生きる希望など持てなかったのだろう。

イタイイタイ病の苦しみを目の当たりにするのは辛いことだが、それがあってこそ二度とこんなことを繰り返してはいけないという思いを強くすることができる。環境と健康の大切さ、命の尊さなど、生きる上で大切なメッセージが伝わってくる。

「四大公害病の中でも一早く認定を受け、救済措置もとられたイタイイタイ病。だが病名に富山と付いていないことから、富山=イタイイタイ病とイメージする人はそれほど多くないでしょう。けれどもイタイイタイ病の歴史から多くの学びがあると思うので、ぜひ県外からも足を運んでほしい」と、副館長の柴田正孝さん(写真)。

資料館がある「とやま健康パーク」には、生命科学館や健康スタジアムなど、県民の健康づくりに役立つ施設が集約されている。

この町で起きたことを
子どもたちに伝えておきたい

地元に住み、プールに通っているというご高齢の女性に話を聞くことができた。

「地域には同じような症状の人がたくさんいて、実は私の母もそうだったの。骨粗しょう症と言っていたけれど、それ(イタイイタイ病)だったかもしれない。神通川はとてもきれいな川だから、私も子どもの頃は泳いで、川の水も飲んだのよ。でも私ら娘世代にはそんなことはなかったし、今はもう誰もイタイイタイ病の話をしませんね」。

富山市内在住の池田恵梨花さんに、来館理由を聞いてみた。

「子どもたちにも、自分が生まれ育った町で、過去にどんなことが起きていたのかを知っておいてほしいという思いですね。子どもが成長していく中で感じ方も変わってくると思うので、時々連れて来たいと思っていて、もう何度か来ています。今日はじゃぶじゃぶ池で遊んだついでに寄りました」。

突然にもかかわらず立ち止まり、取材に応じてくれた明るいご家族。子どもたち(小6、年長、3歳)の笑顔にもふれ、富山の未来を感じる瞬間だった。

屋外パークの一角にあるじゃぶじゃぶ池には、子どもたちの弾けるような笑い声が響いていた。資料館に込められた多くの人々の苦しみを癒すかのように。

富山県立イタイイタイ病資料館
開館時間:9時~17時 入場:無料
〒939-8224 富山市友杉151 (とやま健康パーク内)
TEL076-428-0830
https://www.pref.toyama.jp/1291/kurashi/kenkou/iryou/1291/

富山の旅を終えて

15年ほど前の話だが、熊本県水俣市にある水俣病資料館を訪れたことがある。その時同行していた編集長・藤本裕子の孫(当時3歳)が、「ここにいると涙がなくなっちゃうから、もう帰ろう」と発した言葉が忘れられない。

わずか3歳の子ですら、悲しみがわかるのだ。神通川も、たくさんの人たちの涙で浄化されたことだろう。

イタイイタイ病資料館を後にし、車を走らせた。青々とした田園が広がり、神通川の向こうに見える立山連峰も神々しく美しい。かつてこの米や魚を食べた人々がイタイイタイ病になった。美味しい富山の水、お米、魚…。この町にはたくさんの自然の恵みがある。苦しみ、闘ってきた人たちに感謝せずにはいられない。

無人販売の店を見つけ、思わず10キロのお米を購入した。何気ない日常がどれほど大切かを痛感する。

さらに車で神通川の上流へと向かうと、神岡鉱山の亜鉛工場、神岡鉱業(1986年に三井金属鉱業株式会社より分離独立)が見えてきた。「環境安全最優先」と大きく書かれた看板が物悲しい。

戦争経験者と同じ、公害で苦しんだ人たちも、いずれこの世からいなくなる。同時に記憶の風化も懸念される。私たちはイタイイタイ病の苦しみや悲しみから何を学び、どう生かしていけばよいのだろう。

今に置き換えれば、いじめや戦争、経済尊重主義のあり方など、イタイイタイ病を通して考えさせられることは多い。だからこそお母さんや子どもたちにはイタイイタイ病資料館に足を運んでほしい、山も川も美しい富山の町を訪れてほしい。その美しさから「痛い、痛い」と苦しんで逝ったお母さんたちの思いを感じることができたらと、願わずにいられない。

前日、市内で開催された花火大会は素晴らしかった。夜空に輝く花火の美しさを、今は苦しみから解かれた空の上のお母さんたちも、きっと一緒に見ているはずだから。