米城ビルディング株式会社
名誉会長 石橋友之祐さんに聞く
一年のはじまり
元日は家族で過ごそう!
自らの戦争体験から
家庭の力、母の存在が
「生きる力」に繋がることを
身をもって知った石橋さん。
忙しくても、せめて元日は
家族で団らんの時を過ごしてほしい。
その思いに多くの企業が賛同。
「元日は休業に」と
呼びかけるムーブメントに
母親たちが加わった。
米城ビルディング株式会社
名誉会長 石橋友之祐さん(94歳)
いしばしとものすけ●21歳でフィリピンセブ島に渡り太平洋戦争に参戦。帰還後、福岡県久留米市で家業の酒店業務に従事。株式会社東判光屋社長、株式会社東判光屋会長、久留米市商工会議所副会頭などを歴任。現在は株式会社モデルクレジット社長を経て現在は米城ビルディング株式会社名誉会長、久留米市東部地域発展促進期成会代表幹事。
誕生日は母を想う日
私は8人兄弟の長男として生まれました。母はとても厳しく、やさしい人でした。今でも母の膝の上に顏を乗せ耳かきをしてもらった、あの幸せな感覚を覚えています。
母は、私を呼ぶときには、必ず「友之祐さん」と“さん”づけで呼んでくれました。友だちに“ちゃん”と言われているのを聞くと「あなたがそんなだから“ちゃん”なんて呼ばれるんです。“さん”と呼ばれるようなふるまいをしなさい」と襟を正されたもの。子ども扱いせず、人として尊重してくれていました。
私は母を「かあちゃま」と呼びました。私がこの世に生を受けたとき、人生で最初の先生は母でした。精一杯の愛情と尊敬の気持ちを込めて「かあちゃま」と心の中でつぶやきます。
故・永六輔さんは、「今日は誕生日だから、母と過ごすんだ」そう言って友人の食事の誘いを断っていたそうです。
「誕生日は母に感謝する日」。今も毎年、誕生日に母を想います。
お母さん大学
学長 藤本裕子
ふじもとゆうこ●お母さん大学学長。「お母さん業界新聞」の発行ほか「お母さんの笑顔」をテーマに講演会やイベント、保育園や居場所づくり、まちづくりや商品開発などさまざまな子育て支援に取り組み、「お母さんはスゴイ!」を伝えて30年。厳しくてあったかいメッセージがお母さんの心をつかむ。
お母さん業界新聞ちっご版
編集長 池田彩
いけだあや●お母さん大学久留米支局代表。「お母さん業界新聞ちっご版」編集長。新聞をツールに地域のお母さんを繋げ、筑後中に「笑顔のお母さん」を広げている。一男二女の母としての日常を綴った母ゴコロたっぷりの記事が共感(響感)を呼び、MJ講座や子育て講演会など講師としても活躍。
ふるさと久留米の出会い
藤本 子育て支援の仕事を始めて来年で30年、お母さん大学を始めて10年になります。そんな私が池田彩と出会ったことで、7年前にお母さん大学の活動が久留米で始まり、3年前に「お母さん業界新聞ちっご版」が創刊。そして今日、ここに来させていただくことができました。本日はどうぞよろしくお願いします。
石橋 素晴らしい活動をされていますね。ご苦労様です。
池田 先日、「人とモノと街をつなげる」をコンセプトにした久留米市の情報ポータルサイト「つながる図鑑」で取材をさせていただき、そのときのお話が、まさに私たちお母さん大学(お母さん業界新聞)で大切にしていることと重なったので、これはもう藤本学長に会ってもらうしかない! そう思ってこの場を設けていただきました。
藤本 実は私、久留米がふるさとなんです。両親は他界しましたが、今も実家はすぐそこにあり、岩田屋デパートには子どもの頃、よく母と買い物に訪れていました。大好きだったメリーゴーランドのような回るお菓子売り場が今もあって、もう懐かしくてうれしくなってしまいます。
石橋 ご縁があるのですね。とてもうれしいことです。
池田 長女がまだ2歳のときでした。たまたま読んだ新聞に載っていた「お母さん大学開校! お母さん大学生(お母さん記者)募集!」という記事に目が留まりました。藤本さんがそこで繰り返していたのは、「お母さんはスゴイ!」ということ。子育ては何より大切な事業。皆で「お母さんを学び合いましょう」と書いてあったのです。当時、はじめての子育てにいっぱいいっぱいだった私は、その言葉に導かれるように、思わず藤本さんにメールしてしまったのです。
藤本 新聞の反響が大きく、たくさんのお母さんが、「お母さん記者」に手を挙げてくれましたが、池田さんのメールはとても印象的でした。
池田 私が久留米だったからですよね。すぐに返信をいただいて、ほどなく「今度福岡で講演会をやるので一緒にやらない?」と持ちかけられ、それをきっかけにお母さん大学活動にどっぷりと入っていき、現在の「ちっご版」活動に繋がっています。
石橋 「お母さん」は私の原 点であり、すべての根源ともいえます。子育てを行うのは、家庭と学校と地域…中でも一番大切なのは、家庭での子育てです。その力となるものが、お母さんの存在です。
戦場は弱肉強食の地獄でした。
戦争は二度とあってはならないのです。
亡くなった戦友への想い
池田 辛かった戦争体験が、なおさら「お母さん」への想いを強くされたそうですね。
石橋 21歳で太平洋戦争に出征し、フィリピンのセブ島に配属されました。72年前の終戦間際のことですが、山中でアメリカ軍に撃たれ、部隊からはぐれ4名で山奥へ逃げました。全員マラリアにかかり、震えや43度超の高熱と戦いながら、飢えをしのぐため水を汲み食べ物を探す日々。戦友に迷惑をかけるからと手りゅう弾や鉄砲で自決する者、病気で命を落とす者もいて、私もいつどうなるかわからないような毎日でした。マラリアと栄養失調で、あと1か月終戦が遅れていれば、間違いなく今はなかったと思います。
藤本 激烈な米軍の砲撃、敗走とマラリア…。隣り合わせの死をくぐり抜けて捕虜となり帰還するまでの体験をまとめられた手記は、セブ島で恐怖と飢えに耐えて繋いだ命の記録。拝読いたしましたが、生々しく、読んでいてどこか苦しくなってくるほど。本当にお辛い経験でしたね。命があってよかったと思いますが、生き残りというのは、戦地での体験以上にお辛いのではないでしょうか。
石橋 亡くなった戦友への感謝を忘れたことはありません。年月を重ねても記憶は生々しく、戦争は本当に恐ろしいもの。もう二度と起こらないよう戦友への鎮魂の思いも込めてペンを執りました。
藤本 戦争のことは本や映画でしか知らない私です。改めて戦争の悲惨さ、生きることの尊さを思いますね。
石橋 撃たれたり自決したり。命からがら逃げきって生き延びることができたなんてあまりいい話ではありませんが、死んでいった彼らのためにも何かやらなければという気持ちがずっとありました。戦争を語らない人が多い中、頼まれて、ロータリークラブでも何度か話したことがあります。
池田 私も戦争の話をはじめて聞きました。戦争を経験し、話せる方はどんどん少なくなってしまうのですね。
母に会いたい一心で
石橋 なんとしても生きよう。そう思い、生きて帰れたのは、母に会いたい一心からでした。親兄弟が元気にしているから帰らなければいけない、母親を悲しませてはいけないという強い思いがある人と、帰ってもどうせ自分の居場所がないと思っている人とでは、「生きる力」が全然違ったように思います。やはり家庭の力、母親の力というのは偉大だなと感じました。
藤本 企業として子育て支援に取り組むことになった理由も、そこにあるのでしょうか。
石橋 命を張って守った日本の昨今の世相には、あまりに寂しく心が痛みます。家庭内で親が子を殴る、折檻する、食事を与えないなどの児童虐待、反対に年老いた親に食事を与えない、介護をしない、不衛生なままで放置するなどの高齢者虐待のニュースも後を絶ちません。このような人としてあるまじき行動をとってしまうことじたいおかしなことで、それを解決できるのは家庭教育だと思うのです。
池田 人間関係が薄れ、人が人らしく生きられない時代になってしまいましたね。
石橋 家族は最小の社会といいますが、家庭で命の大切さを伝えていくことや、家族の絆を育んでいくことはいつの時代も最も大切なこと。幼いときに人様に迷惑をかけないよう、しっかりとした躾をすることも重要で、低学年の頃には勉強以前に社会人としてのあり様…両親を大事にし、兄弟仲良く、隣近所のおつきあいを大切にすることなどを教えることが大事です。
家庭が一番大事
藤本 母から子へ、子から孫へと、当たり前に家庭の中で伝えていくべきことが伝わらない時代ですね。
石橋 その理由の一つが、お母さんが忙しいからというのです。核家族化が増えるとともに、お母さん不在の時間が増加しています。子どもが帰宅してもお母さんが家にいない…。特にサービス業では祝日・休日の勤務を余儀なくされている状況もあるようで。だからこそ、せめて新年の元日くらいは一家そろって団らんの日にしてほしい。そう願って企業に休業を求める運動を始めたのです。
藤本 お母さんだけを休ませるのではなく、お店じたい営業しないということですね。
石橋 私が代表幹事を務める「久留米市東部地域発展促進期成会」では、元日は企業の営業を自粛して、お母さんを家に帰してあげよう。一家団らんの良き正月の日を子どもたちに贈ろうと考えました。
池田 働くお母さんが増えていることは実感しています。私はコンビニエンスストアが24時間営業になってから生まれてきた世代ですが、確かにサービス業の人はなかなか休めないという話も聞きます。
藤本 商業施設が元日に店を開けるようになったのはいつ頃からでしょうか。
石橋 1996年にダイエーが大手スーパーではじめて、全国規模で元日営業を開始。 久留米では長い間、商工会議所が商店街や個店に呼びかけて調整を重ね、火曜日定休に統一されていましたが、大手商業施設が元日営業を始めると、一斉定休日もなくなってしまいました。大型店の職員も、「全店定休日でないと、心の休みにならない」というのです。
藤本 お正月ののんびりとした空気が懐かしいのは、私世代くらいのものでしょうか。
池田 「何もすることがないから開いているお店に行く」という意見もありますが、あえてそれをせずに家族でおうちで過ごしたい。年に一度、親戚が集まって顔を合わせる日に。私も含めてそう考えるお母さんも多いはずです。
企業人からアクション
石橋 2014年11月、久留米市東部地域発展促進期成会として久留米市に「市内および近郊の元日営業の廃止の告知、誘導」の嘆願書を提出。元日が完全に休みになれば、お母さんも仕事から解放され、子どもたちとの絆が深まるものと確信しています。しかしながら市も、なかなか難しいといった回答で、事は前には進みません。
藤本 こうなったら、消費者であるお母さんたちが賛同し、「元日はお店に行きません」と声を上げるしかありませんね。
池田 お母さんだけでなく、子どもたちも味方にしたらどうでしょう。以前私が子育てのテーマで講演依頼を受けたときに息子に聞いたんです。「ねえ、お母さんはスゴイ!っていうことを大勢の人に伝えたいんだけどどうしたらいいと思う?」って。そしたら息子が間髪入れずにこう返してきたんです。「それなら子どもたちに協力してもらえばいいよ。世界中の子どもたちに頼めば、お母さんはスゴイ!って言ってくれるよ」って。
藤本 お母さんの休日を一番喜んでくれるのは、子どもたち。子どもはやっぱり自然体。本質をついてきますね。
「元日は、働くお母さんを 家庭に帰そう」
というプロジェクトです。
元日をどう過ごすか
石橋 昔は元日に家族が集まって、写真を撮ったもの。この写真もその一枚です。
藤本 いい写真ですね。昔は皆裕福ではなかったかもしれないけれど夢に向かって必死に生きていた。きっと昔と今の幸せ感は違うのでしょう。
石橋 貧しくてもいい。人としてのやさしさや思いやり、家族の絆を優先してほしい。久留米は町人文化が栄えていて、人情や愛情に満ちたいい人ばかりでした。兵隊に行くときには旗を持って駅まで見送りにきてくれたものです。
池田 会長をご紹介した「つながる図鑑」も単なるお店やイベント紹介ではなく「人」と「生活」がテーマです。隣近所のおじちゃんおばちゃん、街の良いところ。久留米で暮らす人やお店、いろいろなモノを取材、繋げることで久留米の街がよりいきいきとなることを目指しています。
石橋 もう一度、家庭も地域もひと昔前に戻すこと、それが大切なのかもしれません。
人と人を繋げる新聞
藤本 児童虐待の話ですが、事件になっているのは氷山の一角。子育ての悩みを一人で抱えてしまっているお母さんはたくさんいます。
池田 私自身も長女の子育て期はギリギリ状態でした。熊本で生まれ育った私は、長女を産んですぐに主人の故郷である久留米に引っ越してきたのですが、子育てを助けてくれる人も友だちもいないという孤独な子育てでした。それが「お母さん大学」に出会って一変。お母さん大学の学びは、ペンを持って発信すること。子どもをよく見ることから始め、新聞づくりを通して人と繋がる活動です。今ではたくさんの人と繋がり、支え合い、助け合っていることを実感しています。
藤本 地域には池田さんのようなお母さんがいっぱいいて、解決方法もないまま悶々と過ごしています。これをご縁に、久留米の企業の皆様に新聞や活動を知っていただき、応援していただければと思います。
石橋 「子育てにやさしい久留米」を目指して、一緒に声を上げてください。
藤本 「元日を休日に。久留米で笑顔の子育てを!」でいきましょう。全国のお母さんたちも、家族が皆健やかでいられることに感謝すべき元日の一日を、どう過ごすのか、考えてみてください。
(お母さん業界新聞1711/特集)
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