水俣病患者の現実を描いた小説「苦海浄土(くがいじょうど)」で知られる
作家の石牟礼道子(いしむれみちこ)さんが2月10日、
パーキンソン病による急性増悪のため熊本市で亡くなられた。90歳だった。
その死を悼み、2009年8月に書いた
お母さん業界新聞コラム「母郷に通じる海、不知火」を再掲する。
謹んでお悔やみ申し上げます。
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「母郷に通じる海、不知火」
不思議な出会いだった。
水俣病が公式確認された年(昭和31年)に、私はこの世に生を受けた。
生まれ育った町から、3時間ほどの距離にある小さな町で起きた事件。
50年以上も無関心だった私が、水俣という町に、この夏、初めて訪れた。
きっかけは、石牟礼道子著の「苦界浄土」という作品。
日本の近代化がもたらした「負」の象徴である水俣病を、
人間の魂を通じ文学作品として描いていた。
私はそこに、なぜか包み込まれるような母の胎内を感じた。
水俣の本を少しばかり読みかじり、水俣の町を旅したからといって、
真実などわかるはずもない。
けれど、不知火の海に、自然と導かれている自分がいた。
胎児性水俣病…。
水俣病は、工場排水に含まれた毒物「有機水銀」が海に流れ、魚や貝を経由。
つまり食物連鎖により起きた病気である。
医学的には「胎盤は毒物を通さない」のが通説だったが、水俣病は、それを完全に翻した。
胎児は、母が食べた毒物を母の体に宿らせず、自らの体で吸収したというわけだ。
大好きな母を、子が守ったのか。
生まれながらに、水俣病の子どもたちは一歩も歩くことができず、
母に抱かれたまま死にいくか、水子として流れていった。
日本は豊かな経済国となったが、人が人として生きることができない社会が、
本当に豊かといえるのだろうか。
国は少子化を緊急課題としながら、
子どもを産み育てる母親の体と心を、どれだけ守っているだろうか。
たとえば今、流産の割合や原因について、どこまで明確に調査されているのか。
とても無関心ではいられない。
今は埋め立て地となった、水俣湾入口の明神崎に建つ水俣市立水俣病資料館でのこと。
同行した4歳の孫が、「早く帰ろう」と落ち着かない。
明らかにいつもと様子が違う。
そしてこう言った。「ねえ、ここにいると、涙がなくなっちゃうよ」と。
字も読めない孫の心に、水俣の人たちの魂の叫びが届いたのか。
そしてさらに、娘が帰る日に突然、
「ねえ、もう1泊できないかな。もう少し、この町にいたいな」と呟いた。
あれから50年。水俣の海は今、どの海よりも美しく、
そこに住む人々は、誰よりやさしく感じた。
水俣には、母を感じる何かがある。海は母の涙…。
水俣の人々の涙が、この海を浄化したのかもしれない。
その日、不知火湾の夕陽に続く一本の道がぼんやり見えた。
(お母さん業界新聞編集長・藤本裕子)
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